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きょうのさようならについて

日附けのある文章

2016年5月29日(日)友達と会ったパート2

一日

▼今日は友達のF・Dと会った。O・Tも約束していたのだけど、約束時間になっても現れないので、置いていった。二人で歩き回った。なんというか、しゃべれない人というよりは、無口な人という感じで、付いて回った。Dの行きたいところを回った。獅子が谷市民の森や横溝屋敷など。前O・Tと会った時はO・Tがずっとしゃべっていたのだけど、今日は無言の時間も楽しかった。街というか森、近所の親子がザリガニ釣りしてる堀なんかを歩いて通った。Dが言うように、子供がザリガニ釣ってるのを見るのは微笑ましかったけど、親が釣ってるの見ると悲しくなる。トレッサにも行ったのだけど、トレッサで見た、ミニ四駆大会の親子とはまた違った何かがあるような気がする。
 しゃべったのは結局、会ってすぐに誤解を解くための「いや……!」くらいだった。あとは筆談した。筆談も面倒になってしまって、そのうちジェスチャーだけになった。Dは退屈したかもしれない。わたしは友達が友達であると実感できて楽しかった。それだけで十分だと思う。それ以上は望んではいけないような気がするけど、Dは楽しかったのだろうか。その点は不安だった。
 ザリガニ釣りとミニ四駆で親の介入がどれだけの違いがあるのか気になる。どちらも同じことなのかもしれないけど、金のかかるミニ四駆と違って、ほぼ無料のザリガニ釣りを親がはしゃぐのもなんだか滑稽だという感じ。子供の求めていない感が強い気がするのは自分だけだろうか。親がザリガニ釣りする子供はうれしいんだろうか。
 その時Dとも話したのだけど、小学校の頃はそこで子供たちだけでザリガニ釣りをしていた。するめとか持ってきて。死骸でザリガニを釣る、とか。そういう知恵をなぜかしらわたしたちは知っていて、それ以上親の介入することもなかったのだと思う。今の子供が子供たちだけで何もできなくなっているのだろうか。そんなに弱くなっているのだろうか。わたしたちの頃だって、親とザリガニ釣りする子はいたのかもしれないとも思う。問題はそれが気になった自分達にあるような気がする。ミニ四駆では気にならない。ザリガニでは気になる。ミニ四駆をいじる大人はかっこよくさえ見えたのだ。ザリガニを釣っている大人が様にならないのが問題なのかもしれないと思う。

2016年5月29日(日)27/19℃ 晴れ

日報

▼60.00kg
増えた。食べてないのに!不思議なこともあるもんだ。量る前に水を飲みすぎたかもしれない。

▼21時→2時(5時間)
友達と会うんで緊張していて、眠れなかった。眠りも浅かったし、起きたのも早かった。二度寝もできない感じだった。今日は充実していたような気がする。

▼瞑想10分(時)

▼散歩30分(近くの池)、3時間(獅子が谷市民の森)
▼サイクリングなし
▼ランなし
▼17556歩
▼筋トレなし
たくさん友達と歩いた。楽しかった。

▼608円
羊羹、えびすらーめんのラーメン

▼朝食:がんもと豚肉の煮物、パン、ヨーグルト
▼昼食:ラザニア、サラダ
▼夕食:おからの卵焼き、ベビーコーン、サラダ、小女子、納豆、味噌汁 / ラーメン

2016年5月28日(土)父と母

一日

▼父も母も最近は朗らかで、家にいて楽しい。と思っているとそうでもなくなったりするのだけど、たぶん大丈夫。最近は両親のことを信頼しているなと自分でも感じる。両親が朗らかなのは家のローンを払い終わったからかもしれない。肩の荷が下りたというかね。あとはぼくがどうなるのかということだけど、そのことは、あまり心配しているようには見えない。たぶん、ナニやってんだコイツは、と思っているのだと思う。なにやってんだろうね。
 最近は書いていさえすればいいという気持ちもなくて、なにをしたらいいんだという感じ。自分の主要な行動が社会のためになっていないという後ろめたさもある。けど、そんなことあまり気にしていない。やはり、自分ありきなのだと思う。どこまでもわたしは自分勝手だと思う。
 書いていても仕方ないという匂いが立ち込めていて、というか才能がなくて、というか書く気になれなくて。大事な人のために、なにか書くというのは動機になるかもしれないと思う。自分のために書こうと思えないのだ。自分のために書くのはブログだけで十分というか、形になる気がしない。それよりも、両親のためになにか書くというのはありだなぁと思う。自分を正当化するのでもなく、美化するのでもなく、ぼくみたいな人間を持つという両親のことを書くのは意味のあることかもしれない。うちの両親はできすぎている。引きこもりがいることに、何の抵抗もしていない。それは経済的に恵まれているせいも大きいと思うけど、あなたの人生はあなたの人生という割り切りがすごいと思う。どこも型にはめなかったと思う。どこか突き放した怖さがある。もう大人でしょうという態度をわりと小さい頃から取られていたような気がする。そんな気がする。比較対象がないからわからないけれど。
 両親のことを深く考えるには両親のことを書くのが一番なのではないか。わたしは両親のことを知りたいし、分析したいのだと思う。そこには人間性があって、人間がいて、人間らしさがあって。
 両親はとにかく大事な人。その人たちが、死と向き合っているこの時間が、わたしには愛おしい。何かするたびに、死の匂いを嗅いでしまうこの人たちといる時間は限られている。それがわたしには愛おしいのだ。