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きょうのさようならについて

日附けのある文章

2016年9月29日(木)自分をどう評価するか

一日

▼自分に対する頑張りとか、体調の悪さとか、そういうことを数値化する方法ないだろうか。何かと数値に頼るようになってしまったのは物理科所以だと思うけど、つまり実験をしすぎたのだと思うけど、数値に表せないことになると途端に不安というか、どうしていいのかわからなくなる。適当になってしまうような気がする。もう少し耐え忍ばなくてはならない。
 書いたものは字数となって現れるけど、どんな内容なのかということは数字には現れないし、適当な内容だとしても評価してしまうことになる。自分をどう評価するか、ってとても大事なことのはずが、わたしはそれがうまくないように感じてる。うまく自分を褒められないし、うまく自分をけなせない。自分で自分をどう評価したらいいのかわからない。一昨年歯の治療が一通り終わった時も、ご褒美だーと思って買ったものがあったけど、それは果たして良いことだったんだろうか。今でも時々考える。何がご褒美だよ、って思ってる。
 自分をどう評価するかの目を持っていないということは、そのこと自体をよくわかっていないのだと思う。わたしはわたしがわかっていないし、わたしのしていることも、よくわかっていないのかもしれない。それは自分のことだから、客観性を失っているとかそういう次元ですらなくて、ただただわかっていないのだと思う。考えていないというか。感知していない。自分のことなのに。どこか他人事なのだと思う。

▼何時に起きたとか、体重がどうとか、今日は何歩歩いたとか、いくら使ったとかそういうことは数字になりやすいし、わたしにとって語りやすいことだと思う。下手をすればそれだけを語っておしまいになりがちだと思う。人生の本質は数字だけにあるのではないと思う。数字も大事だけど、それだけじゃない。
 今日はツイッターのリアクションが1日後にあったとかそういううれしいことだってあった。日常の中にこそ数字に表れない何か、があるのだと思う。それを言葉にしてくのが、自分のやるべきことなんじゃないのか。数字を語ることは簡単だ。並べて分析すればいい。数字にならないことを語ることは難しい。だからこそやる価値があるのだと思う。自分にしか書けないことを書けるチャンスだと思う。それは自分をどう評価するのか、ということにも繋がってくる。たぶん、たくさん間違うのだろう。間違えてこそと思う。間違えて何も思わないよりはマシと思う。書くことで可視化することができるはず。件の歯の治療のご褒美だって、やりすぎだったか、と思うこともあれば、そのくらいやって当然と思ったりもする。正解なんてないんだと思う。わたしはそれにまつわる数字にとらわれすぎだと思う。その値段とか。

▼今月はCD買いすぎたと思う。本はそれほど買わなかったけれど、それでも結構トータルで使っていた。ネットで買うことに快感を覚えている節がある。今日はあれが届くはず、と心待ちしてる。そういう日はワクワクしてる。でもそれは破滅への一歩だと思う。踏み込んではいけない。ほどほどにしておくべき。そういう快楽とは無縁でありたい。さもなくば。
 これは数字が出ているから気がつけたこと。いくら使ったという記録が残っているからわかったことだと思う。

▼人と人との関わりは、数字には残らないことが多いと思う。感覚、感情、ニュアンス。わたしはそういうことを察知する能力に劣っているのではないか、と思ったりする。派手なことに目が行きがちだと思う。刺激に弱いというか。慎ましやかなものにこそ、美徳を感じる人間でありたいと思う。

2016年9月29日(木)28/19℃ 曇りときどき雨

日報

▼61.10kg
減った。

▼21時→4時、5時半→8時(9時間半)
5時半までは頑張ったのだけど、眠かった。明るくなってきたのだから、もう少し頑張ればよかった。毎日そう言っている気がする。

▼瞑想10分(時)

▼散歩1時間(隣町)、30分(近くの池)
▼サイクリングなし
▼ランなし
▼5876歩
▼筋トレなし
あまり歩かなかった。ここ最近はあまり歩かないことが多くなっている。前は簡単に1万歩超えていたのに。歩かない代わりに何をしているのかといったら、大したことはしていないのだと思う。それよりも歩かないことに対する弊害を考えたほうがいいのではないか。

▼1305円
3月のライオン12』、『職業としての小説家』、缶コーヒー

▼朝食:切り干し大根、チーズ、肉野菜炒め、パン、ヨーグルト
▼昼食:ラザニエッテ、りんごのサラダ、おはぎ
▼夕食:栗ご飯、アジの開き、ショウガの酢漬け、切り干し大根、冷奴、納豆、なめこ

▼『風の通り道』宮崎駿著(文春文庫)

2016年9月28日(水)センサー

一日

▼体重の増傾向があるのだけど、あまり気にしていない。少ない時よりは2.0kgくらい増えている。どのくらいの体重が自分にとって良いのかわからない。2キロくらいじゃ何も変わらないかもしれないけど、どうせ増えるのなら、筋肉で増えたら良いのにと思ったりする。もちろんそんな努力もしていないし、ジムに行っているわけでもないし、負荷をかけられる環境にあるわけでもない。自体重でなんとかやらなくてはならない筋トレを続けているので、スクワットとか、うまく追い込めないでいる。そもそも最近は筋トレをサボりがちで、そんなことを言う権利さえないのかもしれない。腰痛が少しは良くなってきたので、筋トレ、ジョグも再開していきたい。そう書いているうちは、大丈夫だろうと思う。

▼はてさて、今日も一度起きて、誘惑に負けて二度寝したわけだけど、疲れてるからとか、そういうことが頭をよぎってしまったのが良くなかったと思う。言い訳はするべきものだけど、ついその言いなりになってしまう。そこで言い訳を越える理屈がないのがわたしの弱点だと思う。感情論では言い訳には勝てないと思う。言い訳とか、理屈はどこにでもつく。適当な、安易な、自分の考えに惑わされてはいけないと思う。強い意志を持たないと。
 自分がどうなりたいのかイメージでも良いから持ちたいと思いつつ、何も浮かばない。元となる情報を何も持っていないからだろうと思う。わたしは世間も人も知らなすぎる。それは、弱いことだと思う。世間を知るというと、世界を旅するとかそういうことに行きがちだけど、そういうことでなくて、社会の仕組みとか、こういう人がその中にはいて、とか。たまたま良い人がいてなんとか社会は成り立っているんじゃなくて、いろんな人がいて、それで成り立っているんだと、おぼろげながらわたしは知っているつもりだけど、それでもまだまだ全然足りないのだと思う。それは勉強していくものだと思う。学んでいくものだと思う。
 薬を飲んでいるということがどういうことなのか、わたしは分かっていないと思う。それがわたしの薬の普通なのかもしれないし、大げさに考えているのかもしれない。それで、わたしは寝すぎだと悩むのは、違うのではないか。ただ、自分を追い込んでいるか、といえば、全然そんなことはないのだと思う。わたしはもう少し頑張れるのだと思う。一度は起きてるのだから。やり方一つ、心持ちひとつでなんとかなるのだと思う。なんとかしようというのである。そうできるはずなのだ。それは何も根性が足りないとかそういうことではなくて、人間の尊厳のことを言っている。わたしはわたしに誇りを持つために、なるべく少ない睡眠時間で、生きていたいんじゃないか。何か変なことを言っているような気がする。
人間の持つべき体重も、睡眠時間も、わたしにはよくわからない。もし、ベストだ、ということがあっても、わたしには感知されないだろう。その程度の生活というか、センサーしか持っていないという気がする。いろいろと試してみるべきだと思う。常識を疑うべきだ。一日三食とか毎日風呂に入るとか何時間寝るとか。そんなこと言ってられないくらい忙しくなるというのが理想だけど、たぶんそうはならないだろう。寝るのが惜しいというわけでも実際はないのだと思う。眠れてるだけマシともいえそうだし。どうしたら良いのかわたしにはよくわからない。目安となる何かがあると良いのだけど、今の所、気分よく暮らせるとか心地よく暮らせるとか、機嫌がいいとかそういうことでしかないのだと思う。